ほぼ1分ブログ

1分で読めるようにだいたい500文字以内で綴ります。

聖書から忍耐と慰めを学ぶ ④ オバデヤ

今日紹介するのは オバデヤ です。

聖書の オバデヤ書 に記されています。

オバデヤ書は1章しかなく、旧約聖書で一番短い書物です。

オバデヤの名前は「神を礼拝する者」を意味しています

この人は B・C855-840。もしくはB・C630年頃の人です。(諸説あり)

 

生きていた場所は南ユダ王国

オバデヤは、近隣国であるエドムに対して神様の裁きを預言しました。

エドムはイスラエルと歴史的に兄弟分でした。

双子の兄弟ヤコブエサウに遡り、ヤコブイスラエルの先祖となり、エサウエドム人の先祖となりました。

エドムは死海の南東部にある山岳国家でした。

古代都市ペトラとして有名な場所です。

 

ja.wikipedia.org

 

 

高いところに陣を構え、「誰がわたしを地に引きずりおろせるか」と傲慢になっていました(3節)。

非常に荒々しい戦士が揃っていたとのことです。

また自給自足を誇り、難攻不落を自負しておりました。

しかし、それは自分の力に高ぶっているだけで、神による本当の安心ではありません。エドムは神から離れ、自らの力に酔いました。

 

イスラエルがバビロン捕囚として連れて行かれるのはもっと先のことですが、エドムは助けに来るどころか、捕虜を捉えて敵に渡したり、略奪も行ったりしたとのことです。

神を忘れ、兄弟イスラエルを裏切り、その破滅を喜んだのです。

 

詩篇に137編7節にこうあります

 

主よ、覚えていてください/エドムの子らを/エルサレムのあの日を/彼らがこう言ったのを/「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」

 

オバデヤはこのようなエドムの高ぶった態度に対して神の裁きがある事を預言しました。

 

高ぶる者は引きずりおろされる、

 

これがオバデヤに与えられた預言の中心メッセージです。

 

15節からはエドムではなく全人類にむけて語られます。

 

ヘブル語で「エドム」と「アダム(人)」は同じ綴りです。

 

エドムの高ぶりが低くされるのと同じように、全人類の高ぶりもまた低くされるのです。これは世界共通の真理です。

 

ここでオバデヤの忍耐について考えてみたいと思います。

オバデヤの忍耐は「力ある者が高ぶり続けるのを見る」ということでした。

オバデヤの生きていた時はまだエドムは高い岩の上で力を誇っていたからです。

神の真理はあるタイミングで起こります。

それまでは高ぶる者の高ぶりに忍耐しなければならない時もあるのです。

 

ではオバデヤに与えられた慰め/励ましはなんだったでしょうか。

オバデヤに与えられた慰め/励ましは「最後に愛は勝つことを見たことでしょう。

19節から土地の名前が出てきます。

これは神様がアブラハムに約束した土地であり、ダビデも、ソロモン時代よりも広大な土地です。

この土地こそ神の王国が建設される場所です。

オバデヤは破壊されるイスラエル、裏切られるイスラエルを幻の中で見ていますが、

もっと将来には回復されるイスラエル、神の愛が注がれるイスラエルを見ました。

力あるもの、高ぶる者、裏切る者が支配する世界ではなく、

愛と正義を行われる主の創られる世界を見た事がオバデヤの慰めであったと思います。


www.youtube.com

聖書から忍耐と慰めを学ぶ ③ アモス

今日紹介するのはアモスです。

 

聖書のアモス書に記されています。

アモスの名は「重荷を負う者」という意味です。

アモスという名は旧約聖書ではこの人だけ。

アモスエルサレムから南東18kmほどにあったテコアの出身で、羊を飼う牧者でした。またいちじく桑を栽培していたとのことです。

 

つまり田舎者です。

 

わたしも田舎から出て来た者なので勝手に身近に感じています。

そのアモスが都会(エルサレム)に出て預言者として活躍するのがアモス書です。

律法や神学を専門的に学んだ人ではありませんでした。

無学な人でしたが、都会の裕福で学もある人たちに向かって語るのです。

神様はこのような人をたてられるお方です。

 

さて、アモスが活躍したのは南ユダのウジヤ王、北イスラエル王ヤロブアム2世の時です。B・C770‐750年頃と考えられます。

二人とも王とも有能で国を大きく発展させました。

 

時代はバブル期です。

 

人々の生活は豊かになりました。人はこういう時に神を忘れ、他のものを崇めるものです。また、正義がなくなり、この時代も例外ではありませんでした。弱い人を奴隷として売り払うということもあったようです。(2:6)

 

アモスはベテルで神の預言を語ります。

ここは宗教的な中心地であり、学者もいれば権力者もいます。

その中で圧力を受けながらも預言を語ります。(7:10~)

 

特徴としては 諸国の民とイスラエル(北イスラエルと南ユダ)への神の厳しい裁きを伝えています。イスラエルの民はエジプトから贖いだされ特権が与えられた民です。特権があるため責任も重いのです。

 

預言の中に「三つの罪 四つの罪」と出てきますがこれは罪が満ちてきてあふれる様を描いています。罪があふれたために裁きがくだされます。

 

アモスの裁きの言葉は特徴的な書き出しにあります。

「主はこう言われる」(1、2章)

「この言葉を聞け」(3~5章)

「災いだ」(新改訳では「ああ」という嘆きの言葉)(5:17、6:1)

 

 迫ってきますね。

 

 イスラエルの罪は礼拝にまで及んでいました。

人々は裕福ゆえに多くの捧げものをしましたが神様はこれを受け取らないと言われました(5:21)。

なぜなら神を礼拝する者であるにも関わらず、人に対して無関心、無正義でいたからです。

神を礼拝する者は人々にもその正義が川のように流れるはずなのに・・・(5:24)

神様との関係が薄くなることによって、人々の心も偏り、正義ではなく偏愛になっていくのです。

 

7章からは将来に起こる出来事を預言しております。アッシリア帝国による侵略と北イスラエルの壊滅についてです。それを「その日」と表現しています。これは5:18にある「主の日」のことです。

 

全体が重い裁きの言葉に満ちているアモス書ですが最後の5節(9:11~15)にはイスラエル再興の希望の言葉で閉じられています。

 

アモス書の目的はこの希望に向かって裁きの警告がなされ、また将来の幻を伝えます。

残念ながらこれを聞いた人々は回心せず、裁きを受けることになります。

 

ここでアモスの忍耐について考えてみたいと思います。

「畑違い」という言葉があります。

専門外の事に口や手を出すことです。

アモスの活動は1年ぐらいではなかったかと言われていますが、その間、彼はまったく違う「畑」で働いたのです。

それゆえに「その畑の人」(祭司アマツヤ)に「圧力」をかけられたのです。通常であれば引っ込むところを彼は主からの召命を盾にして戦いました。ここに忍耐があったと思われます。

 

そして、アモスに与えられた慰め/励ましを考えてみます。

それは「主からの確かな召命」です。アモスが出向いた都会では裕福ゆえに人々は自由を謳歌していました。しかし、それは同時に曖昧さの中に生きることでもありました。

何が本当の正義か?

何が本当の礼拝か? 

人々の心は自らの興味関心に流されていたのです。

しかしアモスには「確かな神の声」が与えられ、それに生きることができました。

この確かさこそが、アマツヤの圧力を跳ね返す力になったのです。

 

つまり、彼自身をブレない人へと変えていきました。

 

神の確かさが彼を支えていたのです。これが私たちへの慰めであり、励ましでしょう。

最後にアモスイスラエルに語った言葉を私への言葉として聞きたいと思います。

 

5:4 わたしを求めよ、そして生きよ。


www.youtube.com

聖書から忍耐と慰めを学ぶ その② ヨエル

今日紹介するのは ヨエル です。

 

聖書のヨエル書に記されています。

ヨエルの名はヤハウェ(主)は神」という意味です。

ヨエルの情報は少なく、いつ頃活躍したかわかりません。

しかし、聖書に精通していたと考えられるほど引用が多いです。

同じ時代に活躍したオバデヤの書の引用があるのでオバデヤより後で、アモスという預言者がヨエル書の引用があるのでアモスより以前と考えられます。

つまりB・C810年ごろかと予測できますが、ある節ではB・C500年頃との説もあり幅があります。

生きていた場所は南ユダ王国です。

 

ヨエルは、イナゴによる大災害という苦難を経験していました。それは4度にわたりました。ヨエルはこの経験が「将来のこと」への伏線であることを教えられます。

 

それが「主の日の到来」です(1:15)。

 

4章しかないヨエル書ですが、2章からは「将来」のことについて預言しています。

その内容は決して生温いものではありませんでした。「神の怒り」についても触れられております。そして、民衆へも呼びかけます。

 

2:12 主は言われる。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。

2:13 衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」あなたたちの神、主に立ち帰れ。

 

2章18節~4章にかけては神の赦しと回復していく「自然」(2:21)「動物」(2:22)「イスラエルの民」(2:23)が語られます。

 

イスラエルがいかにして回復していくのかが記されているのがヨエル書なのです。

しかしヨエルにも忍耐はあったと考えられます。

それは「聖書を知るがゆえに神の意志を伝えることになった」ということです。

神の言葉である預言をたくさん知っていたのでヨエルは伝える者として用いられました。

しかも「まだ見ぬ将来」について民に話したのです。

目の前のことを話すのは話しやすいですが、まだ何も起きていないことを話すのは勇気がいることです。

 

結果ヨエルは「神は憐れみ深い」という導きを受けます。

 

主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられるからだ。

 2:14 あるいは、主が思い直され/その後に祝福を残し/あなたたちの神、主にささげる穀物とぶどう酒を/残してくださるかもしれない。

 

これは出エジプト記34章からの引用です。彼はイナゴの襲来という困難を聖書に書かれている神の意思と結びつけました。そしてその意思を伝えるという自分の困難を忍耐強く行い、ホセア自身、聖書によって神の憐れみと世界の将来計画に開かれていくのです。

 

ヨエルの物語は私たちに 聖書をしっかり読めば神の憐れみの心と神の備える将来にたどり着く という励まし/慰めを与えてくれます。

 

 

※このヨエル書には有名なペンテコステの出来事(使徒2:17)についての預言がありますが、ペンテコステにすべてが成就したわけではなく、一部が成就したと考えられます。最終的には主の日の前にそれが起こると考えられます。

 

2:28 その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。

 


www.youtube.com

聖書から忍耐と慰めを学ぶ その1 ホセア

今日紹介するのは「ホセア」です。

 

聖書のホセア書に登場します。著者でもあります。

この人はB・C8世紀(800~700年)に預言者として生きた人です。

生きていた場所は北イスラエル王国です。

ホセアの名前は「救い」という意味です。

 

昔、薩摩藩藩士で島津忠救(しまづただすく)という人がいたようですが、日本人で名前に「救」が入っている人はあまり見かけませんね。面白い名前です。

 

ホセアは農夫ともパン焼き職人とも言われていますが、定かではありません。

ただ、文体の基調が高く、裕福で知識が豊かな人であったと想像されるとのことです。

 

そんなホセアですが「不幸な結婚生活」を通して「神の愛と苦しみを実体験として語った」人です。

 

イスラエルの民は神様と契約で結びついていました。

結婚関係に非常に似ています。

実際神様はそのような関係を前提にしてホセアを通して語っています。

 

当時、北イスラエルは繁栄期から衰退へと傾いていた時代でした。

その先にB・C722年のアッシリア捕囚ということが起きます。

その原因は民の神への不従順でした。神からの教えである律法を捨て、他の神々を拝んだのです。

このことに対する神の裁きがアッシリア捕囚です。

そうならないためにホセアは神に従わない人々に対して、神の命令に従うことを教えました。

 

神様はホセアを預言者として召し出しましたが、神様はホセアに「姦淫の女」と結婚するように命じます(1:2)。

その時ホセアがとった行動は「従う」というものです。

 

ホセアはゴメルという「娼婦」と結婚します。

 

【最初の忍耐】

しかし、3人の子どもが与えられたのち、ゴメルは別の男のところへ行ってしまいます(2:7)。ホセアには非はありませんでした。ホセアは「妻の裏切りを経験することによって、民がご自身から離れていくことの痛み」を経験しました。民はバアルという他の神々を崇めました。これが1番目の忍耐です。

 

【二番目の忍耐】

二番目の忍耐は「愛する者との別居と離婚」です(2:4~7)。

 イスラエルの民はバアル神を崇めました。神様はそこから離れることをしなければ一緒に住むことはできないということをホセアとその経験をとおして語られます。ホセアは愛する者の不誠実を不誠実としながら、愛する者が戻ってくるのを待つという忍耐を経験しました。

 

【三番目の忍耐】

三番目の忍耐は「愛する者が裁かれるのを見ること」です(2:8~15)。

 ホセア書の4:1~14:9まではイスラエルに降る裁きが記されています。愛する者がその不誠実さ故とは言え、裁きを受け苦しみ姿は痛みを覚えます。ここにも忍耐が見えます。

 

最後にホセアは「姦淫した女と再婚せよ」という導きを受けます(3:1~5)。

 他の誰かではなく、ゴメルと再婚するように命じられます。ホセアはまた従い再婚します。ここまでくるとホセアの生き方は主の生き方と同一化してきており、常識では測れないものを感じます。しかし、このホセアの生き方に神の愛が豊かに示されています。

 

この物語は私たちに 「神様は悔い改める者を必ず赦してくださる」という励まし/慰めを与えてくれます。

 

14章2節~5節を読んでみましょう。

イスラエルよ、立ち帰れ/あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。

誓いの言葉を携え/主に立ち帰って言え。「すべての悪を取り去り/恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。

アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを/再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者は/あなたにこそ憐れみを見いだします。」

わたしは背く彼らをいやし/喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。

 

神様の元に帰り、喜んで私たちを愛してくださる方の元で憩いましょう。

 

ホセア書についてもっと知りたい方はこちらをどうぞ


www.youtube.com

 

 

No.2 2日目(月曜日:早朝)「イチジクの木を呪う」

No.2 2日目(月曜日:早朝)「イチジクの木を呪う」
 
聖書箇所:マタイ21:18‐19、マルコ11:12-18
 
昨日、子ロバにのってエルサレムに入場したイエス
 
実は、その後エルサレムを後にしてベタニアというえるされむから東に3kmほど行ったところで宿泊をしました。
 
ここには マルタとマリアとラザロの兄弟の家があります。
 
エス様はこの家に宿泊しました。
 
2日目はここからはじまります。
 
マルコによる福音書
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
 
 
動画をみてみましょう。1分52秒~2分27秒
 
 
この個所の意味を知るためにはポイントがあります。
 
この後に
「宮清め」(マルコ11:15~19)があり、
「枯れたイチジクの木」(マルコ11:20~26)
 
が出てきます。
 
これをセットで読むのがいいでしょう。
 
このイチジクの木が表しているのは
 
「指導者たちの偽善」であると考えられます。
 
実が成っているかと思いきや、
 
葉っぱばっかりで命が実っていない
 
指導者たちのやっていることへの怒りが表されています。
 
その状態で、エルサレムの神殿に入ります。
 
ここでイエス様が大暴れします。
 
決して
 
空腹だったから
 
イライラしていたわけではありませんよ。
 
さて、次は「宮清め」です。
 

No.1 1日目(日曜日) エルサレム入場

No.1 1日目(日曜日の昼間) エルサレム入場 
 
聖書箇所:マタイ21:1‐11、マルコ11:1-11、ルカ19:28‐44、ヨハネ12:12-19)
 
 
2021年2月17日 レント(受難節)が始まりました。
レントの期間はイエス・キリストの復活を祝うイースターまでの46日間です。
 
今年のレントはじっくりとイエス様の最後の1週間を追っていきたいと思います。
 
さて
 
日曜日です。
 
一日目
 
エス様は小さなロバに乗って
 
エルサレムに入られました。
 
聖書を読んでみましょう。
 
 
マタイによる福音書
21:1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
21:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
21:3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
21:4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
21:5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
21:6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
21:7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
21:8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
21:9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
21:10 イエスエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
21:11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者エスだ」と言った。
 
 
映像で見るとわかりやすいと思います。
「宮清め」と呼ばれる場面も入っておりますが、ご覧ください。
ここから最後の1週間がはじまるのです。
 
 
 
 
 
 

2020年アドベントショートメッセージ ㉗

2020年12月25日 クリスマス

 

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

(マタイによる福音書2章11節)

 

前回からの続きです

 

星を見る学者たちは

 

幼子イエス様を見て

 

拝みました

 

礼拝をささげたのです

 

その具体的なこととして

 

黄金 乳香 没薬

 

という

 

当時でも

 

価値あるものを捧げました

 

多くの解説では

 

黄金は「王」へのささげもの

 ※高貴なもの

 

乳香は「神」へのささげもの

 ※祭儀に使われる香り

 

没薬は「救い主」へのささげもの

 ※死者の埋葬のときに使われたのでキリストの十字架の死を表している

 

とされています

 

礼拝という言葉は

 

言い換えると

 

「価値を置く」

 

です

 

私たちは

 

自分が価値あると思う「なにか」

 

「礼拝」しています

 

そのために

 

なんらかの犠牲を払います

 

あなたにとって

 

それはなんでしょうか?

 

あなたは

 

何を「礼拝」しているでしょうか?

 

この学者たちを見る時

 

彼らが

 

エス様に

 

価値を置いていることが

 

見えます

 

何を礼拝しているのかが

 

見えます

 

彼らは

 

キリストを礼拝したのです

 

礼拝は

 

他の人に見えるものなのです

 

何よりも

 

私自身

 

何かをささげることによって

 

自分が

 

何を礼拝しているのか

 

知ることができるのです

 

 

 

2020年のクリスマス

 

世の騒がしさから

 

少し離れて

 

救い主に心をむけよう

 

キリストを礼拝しよう

 

I worship you

 


「キリストには代えられません」アカペラカバー by ルア・ワーシップ | "I'd Rather Have Jesus" Japanese Cover

 

 

 

 

 

2020年アドベントショートメッセージ ㉖

2020年12月24日 アドベント26日目

 

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

(マタイによる福音書2章11節)

 

この記事を読むと

 

「家に入ってみると」

 

と書かれています

 

エス様一行は

 

場所を変えたようです

 

おそらく

 

この場面は

 

エス様が生まれてから

 

少し時間が経過しています

 

そして

 

ヨセフはどこへいった?

 

この場所は一体どこなのでしょう?

 

故郷のナザレではなさそうです

 

ヘロデ王のいたエルサレムでもないでしょう

 

赤ちゃんのイエス様がいるので

 

考えられるのは

 

ベツレヘムのどこかの家でしょうか?

 

だとすると

 

星の導きが

 

目立ちすぎます

 

危険です

 

このことについては

 

詳しく書かれていませんの

 

詮索はやめたいと思いますが

 

学者たちが

 

したことには目を向けてみましょう

 

彼らはひれ伏して幼子を拝み、

 

とあります。

 

これは

 

礼拝をした

 

という意味です

 

礼拝は

 

心と

 

動作で

 

行うものです

 

ですが

 

心がなくても

 

礼拝っぽくすることはできます

 

形を守ればいいのです

 

しかし

 

心があるのに

 

動作に表さないのは

 

難しいです

 

心は

 

体を動かします

 

ここで

 

「礼拝」に続く

 

言葉について考えてみましょう

 

あなたにとって

 

礼拝は

 

「守る」

 

「行く」

 

「する」

 

 最近は

 

インターネットの発展で

 

礼拝を

 

「見る」

 

ということもできますね

 

さて

 

心の伴う

 

ふさわしい表現は

 

なんでしょう

 

私は

 

「ささげる」

 

だと思います

 

 

明日は

 

クリスマス

 

このブログでは

 

「ささげた」

 

学者たちから

 

メッセージをお伝えします

 

 

 

 

 

 

 

宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

 

 

 

2020年アドベントショートメッセージ ㉕

2020年12月23日 アドベント25日目

 

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

(マタイによる福音書2章10節)

 

外国に行くと

 

自分の知っている情報があると

 

なんかほっとしたり

 

嬉しくなります

 

学校でも

 

クラス替えの時に

 

友だちの名前を探してしまいます

 

安心材料を探しているのでしょう

 

学者たちは

 

エルサレムに来てから

 

これといった情報がなかったのです

 

王様も

 

「見つけたら教えてくれ」

 

という始末

 

王様が知らないで

 

どうやって探すのか

 

おそらく

 

学者集団(100人単位と考えられる)の中にも

 

「おいおい本当に星をみたのか?」

 

とか

 

「あれ?まちがえちゃた? 帰る?」

 

とか

 

責任をだれかに押し付けようとする

 

そんな空気が流れだしたかもしれません

 

もしかしたら

 

みんな

 

心ひとつにして

 

「絶対さがすぞ!」

 

となっていたかもしれません

 

とにかく

 

情報は

 

昔の預言の言葉と

 

ふしぎな星

 

それだけなのです

 

おそらくは途方に暮れていた

 

そんな時に

 

あの星が現われたのです

 

そりゃ

 

喜びます

 

犠牲を払い

 

賭けるように

 

東の国を飛び出し

 

星と

 

約束の言葉とに

 

導かれて

 

ここまでやってきた

 

彼らの姿を

 

礼拝

 

そう呼びたいと思います

 

 

 

 

 

2020年アドベントショートメッセージ ㉔

2020年12月22日 アドベント24日目

 

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

ルカによる福音書2章9節)

 

エス様誕生より

 

1000年以上も前

 

ラクという人が

 

こんな預言(神様から言葉をいただくこと)をしました

 

 わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。(民数記24:17)

 

この言葉は

 

救い主の誕生の状況を

 

知らせています

 

紀元前6世紀

 

イスラエルの民が

 

バビロンに連れていかれた時

 

この言葉は残り

 

救い主の誕生を知らせる星として

 

民の中に語り継がれたと

 

考えられます

 

そして

 

時を経て

 

ついに

 

星として現れた

 

その星は現れたり

 

消えたり

 

動いたりします

 

星を知っている人なら

 

分かると思いますが

 

星は

 

そのように

 

急激に動いたりはしません

 

流れ星?

 

流れ星はとまりません

 

不思議な星です

 

これは

 

神様の栄光の光と考えられます

 

それは

 

ずっと前

 

神殿から

 

遠ざかった

 

神の栄光なのです

(エゼキエル10章~11章)

 

それが戻ってきた光です

 

神の栄光は救い主という

 

神の栄光へと導くのです

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

ヨハネによる福音書1章14節)